1/7に、今年の仕事始めとして、福岡にて陽宅の風水鑑定をさせていただきましたが、この日は一泊し、明くる8日に太宰府天満宮に参詣させていただきました。
ウメサンが脱サラしたのは1999年でしたが、先ず大阪へ単身で赴き、一年間、風水の武者修行をしたことは過去に既述しました。そのとき大変世話になったのが、姓名学の大家である童涼景先生でしたが、その後も懇親にさせていただいております。童先生はとても度量の大きい先生で、今回は急な出張だったゆえ、連絡したのも出発の二日前だったのですが、午後から鑑定が入っているにも関わらず、快く案内役を引き受けてくださいました。
8日朝9時頃、宿泊ホテル前まで迎えにきてくれた童先生の車に乗り、太宰府天満宮の途中にある大宰府政庁跡に立ち寄ることとしました。
国道3号線の朱雀大路交差点を左折して200mほど行くと、広大な敷地(ナント!甲子園球場の6,4倍とか…!!)があり、ここが『都督府古址(ととくふこし)』とも称される『大宰府政庁跡』です。
西南方位にある駐車場に車を停めて、南門跡からまっすぐ北へ歩きました。中門跡を通りさらに北へ150mほど行くと政庁跡と記された大きな石碑が建立されており、その周りには大きな礎石が数十点在していました。その礎石の大きさからして、かなり大きく立派な正殿が建てられていたことを感じさせてくれました。
この正殿跡の中心に立って四方を見ると、北方は主山をはじめとした山々が玄武となり、東方は小高い山が青龍砂となって護っており、西も小高い山が白虎砂となって護っており、そして南方は広く開けて朱雀となり、東北方位から御笠川が政庁跡を護るように腰帯となって政庁跡の前を通り、そして西方へと流れ、遠方には案山朝山もしっかりと座していました。
(右画像上;政庁跡の北方位に座す山々 右画像下;政庁跡の南方位にある朱雀大路、案山朝山にあたる山々)
そうです!風水理想の地とされる四神相応の地です!!
正殿跡の中心で南方に向いて目を閉じしばし黙想してみました。龍穴とされる地特有の生氣を感じました。
太宰府政庁跡 地理風水白地図
日本の風水都市として最も有名なのは、言うまでもなく平安京です。
推古天皇17年(609年)4月の条に「筑紫大宰(つくしのおほみこともち)、奏上して言さく」との記録が残されています。
発掘調査の結果、7世紀後半~8世紀初頭には、太宰府政庁草創期として、正殿はじめ堀立柱建物群が建立されていたことが判明しているそうです。
たしかに平安京より小規模ではありますが、平安京遷都が794年のことですから、それより100年以上も前にすでに、四神相応の地に筑紫大宰府が造営されていたことは間違いありません!
そうです!筑紫大宰府こそ、まさに日本最古の風水都市と言えるでしょう!!
“太宰”は当時、地方の豪族の国々を監視し、かつ大和朝廷の意向に沿って統治するため、筑紫太宰をはじめ、東国・播磨・吉備・周防など、大和朝廷にとって統治上で重要な地方に置かれていました。 しかし、大和朝廷が強勢化するにつれ、律令制的な国司制が推し進められ、徐々に役割を終え、ついには701年の大宝律令制定によって、筑紫太宰府を除いて、他の全ての太宰は正式に廃止されたとのことです。
では何故筑紫太宰府だけが残されたのでしょうか。それは大和朝廷にとって、筑紫という地は、朝鮮半島に最も隣接した地で、古来より大陸の政治・文化・宗教そして人々などあらゆるものが、この筑紫を通して伝播され、行き来がされていたのです。古代よりこの地は、大和朝廷の朝鮮半島政策のための外交・軍事上、重要な拠点でもあったことは間違いありません。
風水学の視点から見れば、小規模とは言え、これだけしっかりした四神相応の好風水地であればこそ、最後まで繁栄したのだと言えますし、また今日、貴重な日本の特別史跡として国から指定され、整備されているのでしょう。
感動を後に、政庁跡の東北方位にある太宰府天満宮へと向かい、童先生とともに参詣させていただきました。
境内南にある庭園の梅の蕾が膨んで、開き始めているものもあり、「一陽来復」、希望と勇気を与えられたウメサンです。
註)大宰府の歴史的説明に関しては、Wikipediaを参考とした。
この記事はお役に立ちましたか?
★をクリックしてください。
平均評価 / 5. 投票数