11月4日の読売新聞日曜版に、1828年に良寛(※)が三条大地震で被災した友人に宛てた書簡の一文についての記事が載っていました。
その一文はというと、
『災難に逢う時節には災難に逢うが候』
です。
良寛というとウメサンの印象は、小さい頃に読んだ絵本に描かれていた、子供たちと一緒に遊ぶ温和なお坊さんの姿です。そんな温厚な印象とはかけ離れて、開き直って突き放したようなこの一文が、なんと良寛の書簡として紹介されており、思わず熟読してしまったウメサンです。
日曜版の説明によると、この一文のあと、
『死ぬ時節には死ぬがよく候』
なる一文が続くとありました。
日曜版でも、絵本で見るような温顔とは相容れぬ、この突き放した口調は一体何なのか? との疑問を投げかけていましたが、日曜版ではその疑問に対し、以下のように解説されていました。
・・・「確かに『諦めろ』と言っているのです」。元駒沢大学長の仏教学者、奈良康明さん(82)は語る。「ただしこの言葉、今の日本語では後ろ向きのイメージですが、もとは仏教語。本来は“明らめろ”、つまり自分が出会っている『無常の現実』を明らかに観る、という意味なのです」
世の中には、天災のように人間の力ではどうにもならぬことがある。それが「無常の現実」。人は黙って受け入れるほかない。「良寛はまさにそのことを言っている。悲しいのは仕方ないが、先ず現実を受け止めよ。その上でなお前向きに生きていく時に初めて悲しみを乗り越える力が出てくる、というのです。」
・・・
最後に日曜版ではこう締めくくっています。
・・・ふと、この言葉は大震災後を生きる日本人が進まねばならぬ道を示しているのかもしれない、と思う。たとえそれが、我ら凡人にはひたすらつらく厳しい道であるとしても。
昨年の3月11日に起こった東日本大震災の後、2万人近くの未曾有の犠牲者を出した大災害を通じて、術数の限界を感じるとともに言い知れぬ空しさに襲われたことは、すでに昨年ブログで綴りましたが、日本は世界でも有数の地震国であること、そしてその日本に居住する限り、自分も犠牲になる危険性をいつでも孕んでいるということを、ウメサンだけではなく、ほとんどの日本人が痛感したのではないでしょうか!?、とりわけ近い将来、東海地震や首都直下型地震発生の確率が高いとされる東海地区、関東圏内居住の人々にとっては・・・。
大企業の中には、本社機能を地震の少ない県や外国に移設したり、地震の少ない県に移転する家庭もかなりあるようで、それも危機管理上責められるべきことではありませんが、すべての人にそれができるわけではなく、祖国愛、故郷愛を持って、それでもこの地に残る人も多くいるわけです。「備えあれば憂いなし!」で、耐震建築や補強、非常用の準備など、できる限りの備えはなし、あとはまさに天にゆだねるしかないですね。
風水など術数を施すことも、備えの中のひとつです。術数を施す中、九死に一生を得た!という例は少なからず、ウメサンの鑑定経験の中にもあります。
さて、日曜版には、作家で「千の風になって」の作曲家でも著名な新井満さん(66)の言葉も紹介されていました。新井満さんは仏教にも精通されているようで、良寛に関する著作もあるとのことです。
「仏教の根幹はこだわりを捨てること。万物は変化する。財産や名誉はもちろん、最後は命に対するこだわりも捨てなければならない、ここで良寛はそう説いている」
陽宅においては、15度分割の24山方位で家宅の坐向を羅経盤で測定し、それをもとに陽宅三要である『門』『房』『灶』を中心に陰陽の氣の分布と生邪、吉凶を分析し、必要な化煞を施すわけですが、64卦方位を使用する陰宅ともなると6度弱分割、さらに384爻(64卦には各6爻、計384爻ある)方位の中の、1度にも満たない吉爻を求め、墓坐墓向、水口を定めます。風水とりわけ陰宅風水は、まさに究極の“こだわり”とも言えます。
“こだわり”というと捉われて身動きできない、了見が狭い、不自由というようなマイナス的イメージがありますが、調理にしろスポーツにしろ、そして風水など術数にしろどんな分野でも、専門職において一流の人というのは、ある意味、究極のこだわりを持ち続け、技芸技術を究めているのではないでしょうか。
金銭への異常な執着を持つ人は“守銭奴”と称され嫌われますが、金銭に限らず我欲を動機とするこだわりを強く持つと、そこには必ず軋轢が生じ、人間関係を損なったり、トラブルが生じるものですね。
仏教の根幹である「こだわりを捨てる」というのは、我欲を動機とするこだわりを捨てる、もっと端的に言えば「我欲を捨てる」ということだとウメサンは思います。我欲を捨てよう捨てようと思っても、簡単なことではないですね。
よっぽどの義人聖人でもない限り、ウメサンも含めて我欲を捨て去れず、風水鑑定の依頼の動機は、財運を高めたい、健康でありたい、恋人がほしい、結婚したい、志望校に合格したい等、少なからず我欲が絡んでいるものですが、そうした依頼に対し、我欲、こだわりを捨てれば幸せになれるという飛躍した対応をすることはできないものです。
ウメサンが主要風水理論としている三元玄空地理の系譜の中に、僧侶でもある宏船法師、演本法師がおられますが、仏教の教えと人間の“性”“我欲”とのはざまの中で、悩みながらも現実的実践的な方便としての風水術を施していたのだろうと、最近つくづく思われます。
捨てよう捨てようと思っても難しいものですが、今ウメサンも林田明大先生を通じて学んでいる陽明学では、「良知」を致すことを教えており、捨てるではなく、「致良知」、誰しもの心にある「良知」を致すという能動的な生き方をすることが最も大事ではないかとも、合わせて痛感しているこの頃のウメサンです。
なんかまとまりのない支離滅裂な記事となってしまいまして、すみませんm(_ _)m
今回はまさに徒然なるままに、術数を生業とする者の悩みと本音を記させていただきました。
※良寛(1758年生~1831年没)
江戸時代の曹洞宗の僧侶。号は大愚。越後国出雲崎(現新潟県出雲崎町)の名主の家庭に生まれるが、青年時代に出家。備中国玉島(現岡山県倉敷市)の圓通寺で修行した後、越後に帰郷。国上山の五合庵などで長く脱俗の生活を送った。書や漢詩でも名高い。
(読売新聞日曜版11/4号より抜粋)
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