11月も中旬となり、関東も紅葉のときを迎えましたが、11月は比較的暖かく温暖差が少ないせいか、今年は色づきが今ひとつです。そろそろ北風を受けて枯葉も舞い始め、毎朝門周りの掃除が日課となっているウメサンです。
さて今回は、先月16日に家内と訪れた松島に関して、風水学の観点から考察してみたいと思います。
当日は快晴の中、自宅を朝8時くらいに出発し、久喜ICから東北自動車道に乗りましたが、日曜の割には順調に流れており、途中昼食休憩をとりましたが12時半くらいには仙台市内に入れました。
仙台南ICより三陸自動車道に乗りました。それまで順調でしたが、三陸自動車道では衝突事故があったようで、10km近い渋滞に遭い、通常なら仙台南ICより30分で行ける所を、1時間半くらいかかり、ようやく松島海岸ICから下りることができました。遊覧船乗り場のある松島公園に着いたのはちょうど14時くらいでした。
まだまだ大震災の傷跡が深く残っているのかと思いきや、まだまだ日曜の割には観光客は少ない感じでしたが、第一印象としての大震災の痕跡は見当たりませんでした。
松島は、20年ほど前にウメサンは一度訪れているのですが、家内は初めてでした。なにせ25年も前のウメサンの記憶ですからおぼろげですが、そのときも遊覧船に乗って、湾を一周し、「海上に浮かぶ大自然の盆栽」という印象が残っています。芭蕉が「松島や、ああ松島や、松島や」と句を残したほどのそこまでの感動と感慨は、当時まだ30歳前のウメサンにはなかったことを覚えています。
今回も先ず、遊覧船「仁王丸」に乗って、50分間における湾内の島巡りを堪能することにしました。
松島湾内には大小数十の島々が、まさに天然の大きな盆栽のごとく、松を従えた島が点在していますが、仁王丸コースはそのほとんどを観ることができます。
大震災の大津波の影響で、景観が大きく損なわれたのではないかと危惧していましたが、船上の案内ではそうした内容は一切ありませんでした。前回の遊覧から25年ほどを経て、何千万年もの時をかけ、地殻変動や風波による侵食で築かれた松島の美しさを今回は実感することができ、伊達に年を経ていないことに安堵したウメサンです。
あと、25年前にはおそらく体験しなかったと思うのですが、船を追うようにかもめの大群がついてくるのです。船上で与えてくれるえさが目当てということでした。
甲板上に出て、船内で販売している「かっぱえびせん」を手に持って海上に差し出すと、かもめが競うように近づいてきて、見事「かっぱえびせん」を嘴でくわえていくのです。
私と家内も購入して実践してみましたが、それはそれは見事、どのかもめも百発百中でくわえていきました。あげるというより、ひったくられるというような感覚でしたが・・・(苦笑)。
左画像は、船上から撮影した焼島ですが、ちょうどかもめがかっぱえびせんを取ったあとの後姿が映っています。
あっという間の50分でしたが、思わぬかもめの曲芸にもお目にかかることができ、松島の景観とともに、大変癒されました。何はともあれ、大震災とそれによる津波の影響が、島々にはあまり見受けられなかったことに安堵しました。
(なお、小藻根島南端に存在し、遊覧船で通り抜けると寿命が3年延びるとされ、松島観光の名所だった、高さ約5メートルの「長命穴」は、東北地方太平洋沖地震によって崩壊したことを、旅行後に知りました。)
下船後、国の重要文化財である「五大堂」に向かいました。
お腹が空いたため、五大堂へ行く橋の近くにあるお店で、みそ田楽を食べました。店の窓には、震災直後の写真が掲載されていましたが、津波が押し寄せた後、路上や店内にどす黒い泥土が残っている光景でした。確かにこのあたりにも津波は押し寄せたのですが、わずか十数キロ北にある東松島や石巻とは比較にならないほど少ない災害で済んだとのことです。
松島湾岸周辺の被害が最小限度で済んだ理由は、湾内に浮かぶ大小数十の島々が、自然の防波堤となって、津波の巨大エネルギーを緩和したのではないかと言われていることを後から知りました。
人間が造った人工の防波堤ではほとんど防ぐことができなかった中、人がほとんど手を加えていない自然の、それも壮観するととても美しい景観をつくる島々が、力を合わせて守護したということに、涙を禁じえないほど感動したウメサンです。
さて話を戻しましょう。五大堂は湾岸に隣接する小さな島に建立されていますが、橋が築かれています。この橋はすかし橋と呼ばれ、橋げたの隙間からは眼下10mほどに海が見え、五大堂へ行く際に足元を見て気を引き締めるために造られたと言われています。
休憩後、すかし橋を渡っていきましたが、恥ずかしながら足がややすくんだウメサンでした。
五大堂(右画像参照。震災により、前にある石灯籠が倒壊しているのがわかる。)は、伝承によれば大同2年(807年)、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされています。その後、円仁(慈覚大師)が瑞巌寺の前身である延福寺を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に東方降三世明王、西方大威徳明王、南方軍荼利明王、北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことにより、五大堂と呼ばれるようになったということです。現在の堂は、慶長9年(1604年)、伊達政宗により瑞巌寺の再興に先立って再建されました。東北地方最古の桃山建築と言われています。(参考文献;Wikipedia)
五大堂の外側庇の下には、方位に合わせて十二支が彫刻されていました。下の画像左側が申(猿)、右側が羊(未)です。ちなみにウメサンが申年生まれ、家内が未年生まれです。
さて、ここからはいよいよ風水学の観点からの考察です。
五大堂は海に向かって建立されていますが、24山方位で壬坐丙向、64卦方位では、坐卦は「水地比」、向卦は「火天大有」でした。
松島湾岸には、西南から鷲尾山、姉取山、段山、白坂山、大日山、愛宕山、富山と、100~140m級の山々に囲まれており、五大堂から見ると、五大堂を中心として見ると、半円周状の丘陵になっており、あたかもこの五大堂を守るような地形となっています。五大堂の前はもちろん松島湾内のきれいな海とその海上に点在する大小の島々を見渡すことができます。まさに背山臨水となる立地です。しかし背山臨水と言っても、前に海がだだっ広く広がるだけでは好風水地とは言えません。案山、朝山の役目を果たす景観の良い島や半島が必要なのですが、この松島はまさにその条件を満たしています。
五大堂の左右を見ると、典型的な湾上になっており、左右の砂(青龍砂、白虎砂)がしっかりガードしてくれています。
巒頭的に見れば、四神相応の好風水地と言えます。
次に理氣的に見てみましょう。
現在の五大堂は1604年完成ですから、三元九運では第6運、坐向は壬坐丙向(※)ですから、玄空飛星宅運盤を作成すると、左図のようになります。
これから判断しますと、向の向星は5(五黄)で大凶です。海に面していますし、5運時以外は凶運となってしまいます。一方坐は、双星会坐の格局で、坐星、向星ともに6(六白)です。7運時以外は武運の良い好運期を意味しますが、如何せん、向首の向星が5というのが致命傷です。
金龍山浅草寺もそうなのですが、寺社の多くはこうなっていることが割と多いのです。
五大堂は、西北方位にある青龍山瑞巌寺の仏堂ですが、瑞巌寺の西北方にある山が白坂山で、この白坂山を龍にとると、玄空大卦法では下記のようになります。
龍 卦氣9 天地否 卦運九
山 卦氣7 水地比 卦運七
向 卦氣3 火天大有 卦運七
水 卦氣1 地天泰 卦運九
卦運は第8運時の現在は下元を旺としますが、全て下元で旺運にあります。
卦氣は山⇒龍が剋入、水⇒向が生入の吉関係にあり、特に龍の卦氣は9で、第8運時に旺の副正神、水の卦氣は1で第8運時に衰の副零神となっており、玄空大卦における吉のフォーメーションとなっています。
(この詳細な説明は、数十時間かけての玄空大卦講義を受講しないとご理解いただけないと思いますので、省略させていただきます。)
巒頭的に四神相応の好風水地である松島地区ですが、青龍山瑞巌寺建立にさきがけ、仏堂として建立された五大堂に祀られている五大明王への長年に渡る信仰が、時間と共に動いている磁北により長期的に変化してやまない「龍山向水のフォーメーション」と相俟って、この松島地区が守護されたことを感じます。
三元玄空地理では、陰宅を玄空飛星で鑑定するのは間違いであると断言しており、お墓はもちろん、御堂や廟も陰宅として、24方位による玄空飛星法(三元玄空地理では「三元九星法」)ではなく、64卦方位による玄空大卦法によるべきであることを実感します。
さて、風水探訪の旅に戻りますが、五大堂にて参拝後車で、十数キロ先の、津波の被害が大きかった東松島、そして石巻まで足を伸ばしてみました。
わずか松島から十数キロしか離れていないのに、震災後7ヶ月経てもなお残る、あまりの惨状に絶句せざるを得ないウメサン夫婦でした。
風水師として何をすべきか、考えさせられた旅となりましたが、この続き(「東松島、石巻」、「青葉城」、「瑞鳳殿」)は、改めて投稿したいと思いますが、シリーズではなく、断続的な投稿になると思います。
註)
※壬坐丙向
現在の五大堂の坐向。近代になって磁北は30年に1度くらい西偏しており、五大堂が建立された1604年頃は、今の磁北とは異なっていたと思われる。そうであれば当然坐向も異なり、宅運盤も変わってくるが、ここではあくまで現在の坐向で判断した。
この記事はお役に立ちましたか?
★をクリックしてください。
平均評価 / 5. 投票数