早いもので11月を迎え、まもなく立冬ですね。
今年は東日本大震災はじめ、国内外で記録的歴史的な水害等の天災の年となってしまっていますが、天候の影響で、関東ではあまり紅葉することなく、木枯しのときを迎えそうです。ちょっとさびしいですね・・・。
さて、第1回投稿から1ヶ月以上経ってしまいましたが、白衣民族聖地風水探訪記の最終回として、高麗神社について、風水学的観点から投稿させていただきます。
9/22ウメサン夫婦は、聖天院参拝から始め、見事な曼珠沙華が川岸一面に咲き誇った巾着田を観光後、一旦徒歩で聖天院の駐車場に戻ったのはかれこれ18時近くでした。
すでに薄暗くなっていましたが、車に乗って、最後に車で5分ほどの距離にある高麗神社へ向かいました。
先ず高麗神社の由緒と歴史について、高麗神社のホームページを参考にして加筆し、ご紹介します。
日高市にある高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう、『王』は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
高句麗の最盛期は、5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりを窺い知る事ができます。
若光が渡来した年代についての正確な記録は残っていませんが、『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名が記されているようです。
『続日本紀』には、「文武天皇の大宝3年(703年)、従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と目されているようです。
若光は元正天皇霊亀2年(716年)、武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきた当時の高麗郡は、未開の原野だったようですが、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに、当地の開拓に当たったとされています。
若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。
高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目ということですから、1300年に渡り世襲されてきた宗族の絆の強さには、ただただ頭が垂れます。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、その後も在日朝鮮民族だけでなく日本国民にも、広く崇敬を受けています。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが高麗神社参拝後相次いで総理大臣となったことから、「出世明神」と広く知られるようにもなりました。
表参道入り口の鳥居横にある、第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)は、平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものです。
将軍標は朝鮮民族による古くからの風習で、村の入り口に魔除けとして建立されてきました。
向かって左側に『天下大将軍』の柱像、右側に『地下女将軍』の柱像が対で建てられており、中国の獅子一対の像、日本の狛犬一対の像と同じく、陰陽思想に則って、魔除け、邪気除けとしての存在であることがわかります。
なお、韓国から要人や著名人が来日される際も、時間を割いて参拝に来られる場合が多いと、8/22参拝時に立命塾門人のN様から教えていただきましたが、若光王が現代の韓国においても英雄であることがわかります。
現在は年間約40万人もの参拝客があるとのことです。
第1回でも前述しましたが、高麗神社は、現在南向きとなっていますが、昭和9年に時の大日本帝国により元来の東向きから、90度変えられています。風水学上は、元来の東向きであれば、後ろに山、前に玄の字型に流れる高麗川という、まさに背山臨水の建物だったのですが・・・。
8/22に小川裕才先生ご夫妻と参拝したときに下盤してみましたが、現在の神社は、『壬坐丙向』です。ですから昭和9年以前は、『庚坐甲向』であったと思われます。
(左下画像;本殿正面から撮影、右下画像;本殿右斜め横から撮影)
下の白地図を参照していただくとわかるとおり、現在は山を左に見る、山から見れば横向きに建立されていることがわかります。
確かに日本の神社の多くは、北を背にして南を向いているのですが、巒頭風水学上は、やはりもともとの西を背にした坐向が吉なのです。
そうすると、典型的な背山臨水となり、後ろに山、前には九曲水である高麗川を臨むことができます。
ただし残念なことは、
・明堂が狭いこと
・旧高麗神社の前方に九曲している高麗川は、神社向首にまっすぐ向かってくる『射脅水』になっていること
です。
できればもう少し東南側に遷宮して東向きにできれば、明堂も広く、上記の『射脅水』の煞も解消されるのですが・・・。(前面道路も移設せねばならず、大工事にはなりますが・・・。)
それはともかくとして、国家の権力で、長い歴史と伝統を誇り、風水思想に則って建立された朝鮮民族の意に反して、90度坐向変換を強いた史実は、とても残念な歴史と言わざるを得ないでしょう。
今後も、日韓、ゆくゆくは南北統一された日朝友好のためにも、高麗神社の遷宮と坐向変換がなされるよう、一風水師としては祈ってやみません。
夫婦並んで本殿にて参拝後、あたりはすっかり暗くなった高麗神社を後にして、有意義な一日に感謝しつつ、車で帰路に着きました。
~ 白衣民族聖地風水探訪記 終り ~
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