8/22と9/27に、日高市にある在日白衣民族の聖地とされる、聖天院、巾着田、高麗神社へ風水探訪しましたので、4回に分けて連載したいと思います。
先ず第一回は、日程が前後しますが、9/27に家内と夫婦で訪れたときに撮影した画像の一部をご紹介し、序章としたいと思います。
聖天院本堂横にある石段を登っていくと、慰霊塔が聳えており、その横に案内(下記画像)が建っています。
続日本紀によると、今から1300年ほど前、時の大和朝廷は朝鮮半島からの2000人近くの渡来人を、高麗郡(現埼玉県日高市)に集結させたとのことです。
その中心者が若光王で、若光王一行は、現「聖天院」を中心として、風水学上最上とされる水流型『玄の字』型の高麗川を造成して「巾着田」という農地を造り出すなど、風水学に基づいた街造りを成したとのことです。
下の地図に、聖天院、巾着田、高麗神社の位置を記しました。
ちょうど今の時期、巾着田では曼珠沙華(彼岸花)祭りが行われているということもあり、家内と二人で、車に乗って向かいました。おそらく巾着田の駐車場は一杯だろうと思い、先ず聖天院に行き、そこで駐車して、聖天院を拝観させていただいてから、徒歩で巾着田に行くととしました。
案の定、県道15号線は巾着田まであと2kmくらいになると渋滞していました。
聖天院は山腹に建立されており、本殿前の見晴台からは、日高市南方が見渡せました。(下画像は聖天院本堂)
本殿にて参拝後、本殿横の石段をさらに登っていくと、慰霊塔(下画像)が聳えていました。この慰霊塔は、第二次世界大戦にて犠牲となった同胞を弔うために建立された塔ですが、聖天院とこの塔については、次回二回目に詳述したいと思います。
慰霊塔でも夫婦で参拝させていただき、その後下山して、巾着田に向かいました。
ゆっくりと二人で歩いたので、徒歩30分くらいして巾着田に到着しました。入場料200円/1名を払い、高麗川沿いの歩道を流れと逆の右回りに散策しましたが、多くのアマチュアカメラマンが曼珠沙華畑を撮影していました。
ふだんですと赤い絨毯のように一面咲き誇るようなのですが、今年は天候が不順のため、咲き方に時間差があり、まばらに咲いていまひとつだとのことでしたが、まだつぼみの状態が3割くらいありました。
とは言え、木漏れ日が照らす曼珠沙華畑は幻想的で、とても魅了されました。(下画像は、曼珠沙華畑越しに臨む高麗川)
この巾着田に関しては、風水学観点から第三回目に詳述したいと思います。
巾着田を後にしたのは午後6:00近くでしたが、すでに日没し、徒歩で聖天院駐車場に着いた午後6:20頃には、すっかり薄暗くなっていました。
そこから車で5分くらい行くと、高麗神社があります。
境内入り口の鳥居横には、将軍標(下画像)がありました。将軍標は、向かって右に天下大将軍、左に地下女将軍と文字が彫られた像柱一対ですが、朝鮮民族により建立された神社であることが伺えます。
鳥居をくぐってから手洗い場で手と口を洗い、まっすぐ100mくらい行くと階段上って本殿(下画像)があります。
そこでまたまた夫婦で参拝し、高麗神社を後にしたのは、かれこれ午後7時近くでした。
高麗神社は、現在南向きとなっていますが、昭和9年に時の大日本帝国により元来の東向きから、90度変えられています。風水学上は、元来の東向きであれば、後ろに山、前に玄の字型に流れる高麗川という、まさに背山臨水の建物だったのですが・・・。
このことを含め、高麗神社については第四回目で詳述したいと思います。
27日はまさに秋晴れの一日、なんだかんだと10km近くは歩いたと思いますが、風水最高の地と謳われた地のせいか、あくる日も疲れが残らず、久しぶりの夫婦水入らずの、リフレッシュ日帰り旅行でした。
(第二回に続く)
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