一昨日、例年よりかなり遅れましたが梅雨明けとなり、いよいよ酷暑の夏本番ですね。
7月も今日明日二日間を残すのみとなりましたが、明日の浅草風水鑑定会にて、今月の仕事を〆ます。
ウメサンの場合、通常土日は講座または鑑定会があるのですが、本日は珍しく一日あいたので、今月二回目のブログ投稿に勤しみました。
さて今回は、前回投稿した秩父神社風水考の続きとなります。
前回(7/20)は、秩父神社本殿東面に彫られている「つなぎの龍」までご紹介しましたが、さらに左回りに進むと、北面には「北辰の梟」と書かれた立て看板がありました。
画像ではわかりづらいと思いますが、赤色の円で囲ったところに梟がいます。この梟は、体は南向きですが、顔だけは北を向いています。北辰とは北極星の別名で、北極星を常に見ているわけです。
秩父神社は江戸時代までは秩父妙見宮と呼ばれ、千葉の人見神社などと並び、関東における妙見信仰のメッカのひとつでした。
日本における妙見信仰と言えば、仏教における北辰妙見菩薩に対する信仰が有名ですが、その信仰の源流を辿ると、中国の道教における星辰信仰に行きつきます。
北天において不動の北辰(北極星)こそ宇宙全体を支配する天帝として崇められた信仰が、仏教と習合して菩薩化され、北辰妙見菩薩への信仰となったようです。
しかし、明治維新の際の神仏分離令によって、神道においては「菩薩」を公然と祀れなくなってしまった為、妙見菩薩と同一と見なされている天之御中主神を祭神とされることとなりました。前回7/20投稿記事にも掲載しましたが、秩父神社の案内板(下画像)には、祭神として北辰妙見の名は見当たらず不思議でしたが、調べてみて合点がいきました。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)として祭られているのです。
ところでなぜ梟なのでしょうか?風水では北坐を守護する瑞獣は「玄武」です・・・。梟と言えば、❝不苦労❞と解釈され、幸運の鳥として尊ばれていますが、洋の東西を問わず「知恵のシンボル」とされた瑞鳥でもあります。
秩父神社の祭神「八意思金命(やごころおもいかねのみこと)」は、知恵の神として崇敬されており、思慮深い神の使として、社殿北面に施されたと推測されています。
上画像は秩父神社で購入した北辰妙見様の護符です。菩薩名ではありませんが、「北辰妙見」と記されています。そしてよくよく拝見しますと、妙見様は亀のような動物の上に乗られています。この動物の顔は蛇のようですので、恐らく「玄武」と思われます。まさに妙見信仰と風水思想が融合した御姿と言えます。
購入後、早速家屋の北坐にお祀りしました。
さて、さらに左回りに行くと、本殿西面には猿が彫られており、下画像のような案内板がありました。
徳川家康を祀る日光東照宮の三猿(さんざる)は、陰陽道の庚申信仰に因んだ「見ざる、聞かざる、言わざる」として有名ですが、秩父神社の三猿は日光東照宮の三猿とは全く違った表情をしていて、「よく見て、よく聞いて、よく話そう」といった仕草を表しており、「お元気三猿」として親しまれているそうです。
さらに左に回ると参拝所のある南面に戻りますが、参拝所を挟んで両側に「虎」が描かれていました。
虎と言えば、風水では西を守護する瑞獣「白虎」ですが、秩父神社では正面となる南面に彫られています。特に左側には、親子と思われる二頭の虎が彫られていますが、「子宝・子育ての虎」と書かれた板が貼られていました。なぜ西を守護する「虎」が拝殿正面の南面に彫られているのか、これは疑問でしたが、今回の投稿に当たり調べてみて合点がいきました。
秩父神社のHPによると、神社の再興を命じた徳川家康は、寅の年、寅の日、寅の刻生まれとされ、それに因んで拝殿の正面には虎の彫刻が施されたそうです。子虎と戯れる親虎の彫刻は、名工・左甚五郎が家康の威厳と祭神を守護する神の使として彫刻したものですが、当時の狩野派の絵画では、虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くことが定法とされていたことから、母虎をあえて豹として描かれているそうです。
埼玉県に移り住んで早18年が経ちましたが、今回初めて秩父神社を訪れることができました。風水を生業として積み重ねてきた知識と経験を持って、ようやく訪れることが許されたのだと実感しました。
次回は8月になりますが、霊験あらたかな「三峰神社」について投稿します。
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