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ケロケロウメサンの風水探訪 天海僧正(明智光秀?)ゆかりの喜多院~前編「風水師天海僧正」~

 

ケロケロウメサンの風水探訪 (明智光秀?) ゆかりの喜多院 ~前編「風水師天海僧正」~

 2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』は、コロナ禍の中、途中三ヶ月もの中断を経ながらも、無事に完結しました。
中国王朝時代、徳の高い皇帝が出現すると、麒麟が祝いに姿を現すとされ、麒麟は家庭や職場に平安をもたらすとして、重要な風水アイテムのひとつとなっています。
麒麟(左が雌 右が雄)(風水改運中心HPより転載)

風水の麒麟一対

ドラマでは、太平な世には『麒麟』が現れる!という設定になっていました。
大河ドラマは、戦国時代の作品が多いですが、今回はいつも脇役、それもどちらかというと反逆者として扱われてきた『明智光秀』を主役とした異色作でした。

麒麟が来る

(NHKのHPより転載)
そして、2/7に最終回「本能寺の変」でクライマックスを迎えました。
織田信長暗殺後の山崎の戦いで敗れた後、死亡したとされる光秀ですが、3年後京の町中で、光秀らしき武士が現れ、馬上の人となって颯爽と原野を走り去っていくのがラストシーンでした。
学説的には、「明智光秀⇒天海僧正」説は支持されていませんが、
・ドラマで光秀が、徳川家康の忍びの菊丸に「この戦に勝った後、なんとしても家康殿のお力
添えをいただき、共に天下を収めたい。」旨の書状を託したこと
・天海僧正の甲冑は、ドラマタイトルの麒麟を配した「麒麟前立付兜」であったこと
(刀剣ワールドHPより転載)

天海僧正の甲冑「麒麟前立付兜」2

以上2点から、光秀⇒天海僧正説を匂わせるラストであったと言えるでしょう!
天海僧正こそ、日本史上最高の風水師として尊敬しているウメサンにとっては、とても感銘したラストでした。史実はともかくとして、とてもロマンのあるラストシーンでした。

天海僧正は天台宗の僧侶でしたが、徳川家康、秀忠、家光と、三代に渡って朝廷との交渉など参謀として仕え、ナント!108歳という当時の寿命の培となる天寿を全うしたとされます。
輪王寺所蔵の天海像(Wikipediaより転載)

輪王寺所蔵の天海像

1616年、逝去した家康は久能山に埋葬されました。
狩野探幽による徳川家康肖像画(Wikipediaより転載)

狩野探幽による徳川家康肖像画

天海僧正は家康の神号として「東照大権現」を提言、同じく参謀であった他僧侶の反対あるも押し切り、さらに日光東照宮の奥宮へと改葬しました。
日光東照宮(Wikipediaより転載)

日光東照宮

日光東照宮境内北方の奥に、家康公墓所はあります。

日光東照宮内にある奥社と墓地

奥宮(徳川家康墓所)(Wikipediaより転載)

日光東照宮の奥社(徳川家康墓地)

死者が眠る墓所を風水では陰宅と称しますが、この墓所はまさに、(生氣宿るスポット)上に
設営されており、天海僧正は風水術にも精通されていたと確信できます。
真の龍穴は、砂(さ)と呼ばれる丘陵で左右から守られています。

陰宅点穴4

龍穴から見て、左の砂を青龍砂、右の砂を白虎砂と呼びます。図のように幾重にもなっている場合は、内青龍、外青龍と呼びます。
それでは家康公墓所周辺の地勢はどうでしょうか?

家康公墓所における龍穴砂水図

女蜂山(にょほうざん)が主山となり、ここで蓄えられた地の氣が、尾根伝いに南東へ流れていきます。龍穴上の家康公墓所を、左右二重の砂が守っています。
向きを同じにして、さきほどの風水地勢図と比較してみましょう。

龍穴と砂2

どうでしょうか!?
二重と三重の違いはありますが、同じような地勢になっています。
そして真の龍穴の前方には、必ず河川や湖など「水」があります。

龍は水を飲みにやって来る

河川により、地の氣の流れが止められて、やや盛りあがった地形となり、これを「龍頭」と言います。そして、龍頭と河川の間に、地の氣が湧き出る龍穴があるのです。
龍穴は龍の口に相当するわけです。
(生氣)は水を飲みにやって来るのです!
風水アイテムの代表はもちろん龍ですが、龍の口元に水を必ず供えるのは、このためです。

IMG_5494

ウメサンちの玄関で、生氣を招いてくれている「山水龍」
地勢図ではよくわかりませんが、谷を流れている数本の小川が合流し、東照宮の前にて「水口(すいこう)」となり、ゆるやかに流れ去っています。
日光東照宮は、
龍=地の氣の流れ
穴=龍穴(地の氣が湧き出るスポット)
砂=龍穴を守護する丘陵
水=地の生氣を招く媒体
の風水四大原則を満たす風水吉地なのです。

風水師としての天海僧正の足跡は、それだけではありません!
天海僧正は家康の命を受け、1599年に無量寿寺北院(現在の喜多院)の住職として赴任しました。
現在の喜多院(埼玉県川越市)

喜多院

ここを拠点とし、居城地選定に従事したとされています。居城地が決定後、徳川家康が1603年に江戸開府されてから築城が始まり、1637年に天守閣が竣工、足掛け34年間をかけた大事業でした。
江戸城全体絵図(Wikipediaより転載)

江戸城(千代田城)

しかし、明暦3年(1657年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くが焼失しましたが、町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかったようです。
江戸城天守台跡(Wikipediaより転載)

江戸城天守台跡

それでは、徳川家康の命を受けた天海僧正が、風水に基づいて選定したとされる江戸城地は、果たして風水吉地なのか!?
検証してみましょう。

高台4となっている江戸城本丸跡

天守閣のあった本丸はこんもりと盛り上がった台地となっています。(画像は天守台近くより撮影)
風水学的には「平岡(へいこう)の龍」と称される地で、生氣の宿る吉地なのです。

スモールスケール的には、江戸城地(現在の皇居)は風水吉地であることがわかりました。

それではラージスケール的にはどうでしょうか!?
先ず、風水都市として国内外で有名な平安京(現京都)を見てみましょう!
平安京風水地勢図(武庫川女子大学HPより転載)

平安京跡の風水地勢図

長方形で囲ったエリアが、平安京でした。
上画像にウメサンが加筆した地勢図

四神相応の平安京

北は貴船山が主山を形成し、東は比叡山~大文字山が青龍砂、南は桂川と鴨川が合流して水口をなし、西は愛宕山~西山が白虎砂となり、前述の日光東照宮の地勢をよりラージスケールとしたような東西南北の地勢になっています。
こうした地勢に囲まれた地は、『』の地と称され、風水の理想地と位置付けられています。四神とは四神獣のことで、中国古代から伝わっている霊獣です。

四神獣

北;玄武
東;青龍
南;朱雀
西;白虎
と、東西南北四方を守護しているとされ、
北に地の氣を蓄える山
南に水口(河川合流点)や湖・池・湾
東と西に丘陵
がある地こそ、四神獣に守護された風水吉地だとされます。

四神獣と平安京

平安京はまさにこれら条件を満たし、四神相応の理想的な風水吉地とされています。

それでは、江戸城地はどうでしょうか?
四神相応には、日光東照宮や平安京のように、地勢的な東西南北の条件のほか、人間社会性を付加した四神相応もあります。それは、東の青龍と西の白虎の対応条件で、
東に大きな河川
西に大道
です。

江戸城地回りの風水環境

江戸城地を中心にして関東周囲を見ると、東には隅田川、荒川、江戸川、利根川の大きな河川が流れており、西には五街道※のうち、幕府が最も重視していた東海道という大道がありました。
※五街道は、東海道、日光街道、 奥州街道、中山道、甲州街道がある。地図には東海道と甲州街道のみ記した。
かくして、江戸城地を中心とし、
北は日光山(輪王寺、、二荒神社)
東は荒川、江戸川などの大河川
南は江戸内海(今日の東京湾)
西は東海道の大道
という四神相応の条件を満たすこととなるのです。

江戸城の地理風水図

以上、天海僧正は後に慈眼大師という天台宗で六人しかいない大師という諡号(しごう)をいただくほど、僧侶として大変な功績を残した聖人でしたが、陰宅陽宅の両宅に渡り、日本の後世に繁栄をもたらす風水師でもあったと言えるでしょう!

今回の大河ドラマの視点で見れば、麒麟がくる太平の世を願っていた明智光秀が、徳川家康のブレインとなって、江戸幕府という太平の世を築いたとなれば、まさに大願成就です。
史実はともかく、ロマンのある説ですね。

後編では、家康の命を受けて天海僧正が住職として赴任した無量寿寺(現在の喜多院)を探訪します。

それでは動画にてご覧ください。

 ウメサンが塾頭を務める立命塾では、4/16開講の実践的風水学講座を設けています。
関心ある方は、第15期立命塾実践的風水学講座をご照覧ください。

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